【読了】人生論ノート (新潮文庫)

死、幸福、懐疑、習慣、虚栄、名誉心、怒、人間の条件、孤独、嫉妬、成功、瞑想、噂、利己主義、健康、秩序、感傷、仮説、偽善、娯楽、希望、旅、個性という23のテーマについて書かれています。

こうした系統の本にしては、言葉が率直であり比較的読みやすい方だと思います。
どちらかというと軽快な文章で、読み物として読めるのではないでしょうか。

ネットのレビューを見るとわかりくいと言う方や
内容がぴんとこないという方もいらっしゃるようで
賛否両論の様子ですが、
私は大変わかりやすく、また内容もしっくりくるものばかりでした。

筆者の三木清は、ドイツに留学してハイデッガーに師事し、
昭和初期に活躍した哲学者です。
かと言って平成の現代においても古さを感じる内容ではありません。
これは、人は変わらないということの証左であるとも言えます。

健康は不健康によって認知されること、信仰の根源は他者にあることなど
読んでいて思わず強く頷くことが多いです。

紙幣はフィクショナルなものであるということ、幼少期にとても疑問に思ったことがあるので、こうして書かれているのをみてどこか安心しました。
“人生はフィクション(小説)である。だからどのような人でも一つだけは小説を書くことができる。”
というのは面白い言い回しだなと思います。

他の人に対して自分が良い存在であろうとする為の虚栄は、確かに良いことであると言えます。
名誉心と虚栄心は違う。区別して後者に誘惑されないのがストイックである。
という記述にはっとさせられました。
この2つは、とかく混同されがちであると感じます。
人は環境と直接に融合して生きることができず、むしろ対立し戦うことで生きるものであり、
だからこそ名誉心とは戦士の心でありまた武士道であります。

世間の評判はアノニムであり、それを気にするのは虚栄心。
匿名と抽象は違うものということも、見逃されがちな事実のように思います。

すべての名誉心は何らかの仕方で永遠を考えていて、
名は個人の品位の意識で抽象的なものとしての永遠である。
翻って虚栄心は時間的なものであるという記述に、腑に落ちたものがあります。

武士道を語るとき、名誉のため、お家のために命を捨てることを
現代の感覚のままに浅墓だと言われることに納得がいかないのですが、
名を残す、体面を重んじることは永遠だからこそ、大切にしたのだと思いました。

“抽象的なものに対する情熱によって個人という最も現実的なものの意識が成立する”
宗教は永遠とか人類だとかの抽象的なものを具体的にし、名誉心の限界を明瞭にするものだという描写もしっくりきました。

具体的な社会では抽象的な情熱である名誉心は一つの大きな徳であることができたのに、
社会が抽象的になった為に名誉心も抽象的になり過ぎて根底がなくなり、
虚栄心と見分け難くなった。
これが先程あげた武士の名誉心が現代では理解されにくいどころか
馬鹿にされることすらある理由なのではないでしょうか。

同様に怒りも良くないことのように近代では捉えられがちですが、
怒りそれ自体は悪いものではないはずです。
避けるべきは怒りでは無く憎しみ。混同されるのは怒りの意味が忘れられているからだという記述に、なるほどと思いました。
確かに神は怒りを表しますが、憎いからやっているわけではありません。"神の怒を忘れた多くの愛の説は神の愛をも人間的なものにしてしまった。"という部分が、確かにある気がします。

人間が怒る時というのは名誉心からくる怒りであり、名誉心と虚栄心の区別が曖昧になった現代では、怒りすら曖昧になってしまいます。
無性格な人間が多くなったということであり、怒る人は少なくとも性格的だということになります。

昔の人間、具体的にはこの場合、江戸時代後期から明治あたりでしょうか。人間は限定された世界に生きていたというのは非常に頷くところです。
地域が見通せていて、相手が何処の誰でどんな人か、
道具ひとつとっても誰が作ったものかわかっていました。
つまり人間に性格があったといえます。
しかしながら現代は無限定な世界で、全てがアノニム(無名)でアモルフ(無定形)になってしまっています。

以前、現代の仕事がつまらないのは当たり前だという意見を目にしたことがあります。
昔なら、ある品物があったとして、これは自分が作った、隣の職人が作ったものであり、
どういうところがどんなに素晴らしいかよくわかっています。
だから、本当に良いと自分が思うものを、良いところをありったけ事実だけ述べて
人に広め、対価をもらうことができます。
翻って、現代は顔の見えないどこかの誰かが管理して作った工業製品で、
知識としてしか品物の良さも知らず、それをまた顔の見えない誰かに売るのが
営業おちう仕事になっているからだ、というものです。
これも、全てがアノニムでアモルフになってしまったということでしょう。

現代は全てが薄まり混ざりつつあるのかもしれません。

現代は成功=幸福と捉えられがちな気がします。
幸福は現代的では無く成功は現代的だから、この2つが相反する意味にとられてしまうのです。
人の幸せを羨ましいと思うのはまだしも、妬むのが理解できなかったのですが、
そういう人は幸福=成功と見ているから、というので納得がいきました。

幸福の基準は飽く迄も個人であり人それぞれですが、
成功は一般的な基準があり嫉妬がされやすいというのです。

幸福は存在に関わり、成功は過程に関わることから、
他人から成功しているといわれてもピンとこない人もいるというのも
なるほどと思いました。
自分にとっては、まだゴールを目指して進んでいる最中で、
それを成功していると羨まれても、
当人からすればゴールを目指して頑張っているだけでしょう。
でもそのスタンスがまた、嫉妬する人にとっては
謙遜であったり不遜であるように感じてしまい、
余計マイナス感情を持ってしまうのではないでしょうか。

成功と幸福を混同してしまえば、不成功=不幸になってしまい、
幸せを自覚することが難しくなります。
現代の人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった、ということです。

成功は幸福とは別個のものであり、ここを切り分けて
成功することを一種のスポーツとして追求するというのは
自分にとっては目新しい表現ではありましたが、
成功している人を見るとそういった側面があるように思いました。
自分の幸福を揺るがすものとして捉えるよりも、
スポーツで勝利を目指すように成功を追い求める方が確かに健全です。

近代の成功主義型は型として明瞭ではありますが、
現代は個性を重んじると言いつつも、実態としては
個性ではない個人意識が発達しています。
型的な人間が増え、謂わば量産型な人間で個性的ではなくなってしまった
という記述に危機感を覚えるところです。

この本の中の現代と私が今この本を読んでいる現代とで差があまり無いように感じるのは、
人間が人間らしく生きていたのは幕末前後であったからではないかと
改めて思ってしまいました。