【読了】想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 (ネットワークの社会科学シリーズ)

国民とは、近代国家の誕生に合わせて作られた想像の共同体である、
とことが本書のタイトルです。
筆者は中国生まれのイギリス人でインドネシア研究者であり、ナショナリズム研究の古典本とされています。
国民という概念がどのように成り立ったのか、など様々な観点から
論述されていて具体例が多く、
世界史に詳しい方、地域や民族について研究されている方など
様々な分野の方が参考になる内容だと思います。
時が経っても内容が古臭いと感じることは少ないでしょう。

ナショナリズムは出版語により確率されていったという定義は、
確かに明治以降の日本にも当てはまるのかもしれません。
ただ現代の日本では、ナショナリズムという言葉は歪められており、
ネガティブな印象があるように思います。

ごく個人的には、ナショナリズムが近代、宗教の代わりであるというのは、
少なくとも日本においては違うのではないかなと思います。
元々日本は外国と違って宗教に対してゆるい付き合いをしていますし、
現代でも無宗教と言いつつ初詣は神社に行き、葬式は火葬し、
信心がなくてもお地蔵様を蹴るようなことは大抵の人はできないものですが、
これはナショナリズムがあるからなのでしょうか。

日本の場合は現人神という考え方があるわけで、
それがナショナリズムに通ずると判断する向きにはそうなのかもしれません。
神話と国の成り立ちがそもそも近しいものであり、
それが近代の一部の人の『ナショナリズム』によって、
面倒な主義主張に変化させられ、神話自体が穢されている印象はあります。

自分は日本人だ、と強く思うためには世界との比較が必要になります。
そもそも、明治政府が成り立つまで、国というのは藩のことでした。
藩という小さい単位だったのか、日本列島という単位になっただけで、
出版語に拠る以前から藩という単位での”ナショナリズム”があった訳です。
ナショナリズムは国旗や国家に代表されるものではなく、
本来動物の本能として、自分を守る為に所属を求めるものではないのでしょうか。
個人ではなく家族、家、藩、どんどん枠組みを大きくしていけば
国に辿り着きますが、そこで終わりではなく
宇宙という”外”と比較した場合は地球人という枠組みになります。

肌の色で差別する感覚は恐らく大抵の日本人には
理解しがたいものではないかと思います。
意思の疎通が出来るかどうかの方が重要であり、
たとえ意思疎通が出来なくとも、危害を加えられなければ
基本的にはこちらから加害するようなことはありません。

民族意識、同胞意識というのは、国民という言葉とイコールなのでしょうか。
顔も知らない日本人の戦没者の慰霊碑の前で祈ることができるのは、ナショナリズムなのでしょうか。