ゆっくり、いそげ ~カフェからはじめる人を手段化しない経済~ (日本語) 単行本(ソフトカバー) – 2015/3/21
影山知明 (著)
働いても働いても幸せが遠のいていくように感じるのはなぜなのか。
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金銭換算しにくい価値は失われるしかないのか。
「時間との戦い」は終わることがないのか。
この生きづらさの正体は何なのか。
経済を目的にすると、人が手段になる。
JR中央線・乗降客数最下位の西国分寺駅――
そこで全国1位のカフェをつくった著者が挑戦する、
「理想と現実」を両立させる経済の形。
ネットで抜粋を見て、興味深かったので読んでみた。
資本主義を否定するのではなく、基本的に良いものだと思っていて
成長、効率、革新や活性、便利は確実にあるとした上で、
すべてが資本主義で良いわけではない、というのがとても共感を覚える。
不特定多数の参加者間で価値を交換するのがグローバル経済。
それに対して、同じように市場媒介としながらも
特定多数の参加者の間で価値の交換を可能にするローカルシステムが
特定多数経済というのがなるほどと思う。
くるみ収穫ツアーの体験が労働力を提供し
お互い様という感覚から成り立ち、くるみの売買と言う価値交換だけでなく
複数の価値が見出されるというのが素晴らしい。
経済が目的なのか手段なのかというのは本当にそのとおりで、
人が幸福感を持って日々を生きる、そのために経済がある。
スーパーの同じ店に1キロ1000円の商品と1キロ3000円の商品が並んでいて
フェアトレードだ、などの理由を聞いて熟慮の末3000円の品を
買う人はいるでしょうが、日常的な買い物の場面では1000円を選ぶ人が多いはず。
同じ土俵に立ってしまうと、安売りというのを価値にしてしまえば
大企業に勝つのは難しく、無理に値下げをしても潰れてしまうだけだ。
それに対処するには特定多数経済で、密度の濃いコミニケーションが必須になってくる。
金銭的な価値に収斂しない価値の保全や育成の実現は理想ですがなかなか難しい問題でもある。
資本集約が進んでいる中で、いかに値段だけではない価値を伝えられる媒体になるか。
それを実現しやすいのは、不特定多数を相手にする場所ではなく
特定多数と密度の濃いコミニケーションが可能な場所。
それがカフェなどの小売業というも納得だ。
実際には大手量販店ショッピングモールやコンビニなど
小売業こそ資本集約が進んでいるのが現実で、個人営業のお店などは
営業が厳しいことも多い中で、いかに値段だけではない価値を伝えられる媒体になるか。
「大きなシステム」が形成されるその過程で、「特定の人にとっては大事だけれど、普遍化しにくい」ような価値は取引の対象ではなくなり、その居場所をなくしていく。
資本主義としてはそれが正しいとしても、「大事なものはそれだけではないのではないか」。
多元的な価値が尊重され実現される社会をつくることが本当は大切である。
不特定多数相手では無理でも、特定多数の参加者を想定すれば
金銭換算しにくいようなものも含めて「特定の人々にとって大事な価値」を取り扱えるようになる。
例として「純米酒をつくる蔵が守られること」や「日本の森がきちんと手入れされ未来につなげられること」が上げられていましたが
確かに該当する「特定の人々」にとっては
自分の周りでも動物の保護や刀剣などの歴史・美術関連の保護など
金銭同等か、場合によってはそれ以上の価値が見出されている。
そこに価値を見出す以上、一○○のお金を出して
返ってくるお金が七○でも、価値が三〇以上あれば
投資家がお金を出す十分な理由になる。
お金を出すことは合理的な選択であり続ける。
お金を出す側が組織ではなく個人なら、
ただ好きだから、なんとなく、という理由でも成り立つ。
私はミヒャエル・エンデが好きだが、
確かに『はてしない物語』は
少なくとも序盤は特定の悪役が出てくるわけではなく、
虚無に奪われた世界に新しい名前をつけることで救う。
世界を想像し、創造すること。
それを一番上手にできるのはこどもたち。
現代社会でシステム化が徹底すると、人は考えなくなる。
営業成績を高めるとポイントがつき、
そのポイントで給料が上がるのだとしたら、営業成績を高めることに邁進すればいい。
「なぜ、営業成績を高めなければいけないのか」とか、「そもそも営業成績ってなんなのか」などと問うことは求められてはいないし、
そんなことをしていたらむしろ「異端児」ー「システムエラー」となる。
システムの目的に沿って、ときに自分の本心を「殺す」ことさえ憚らない人。
気が付けば「自分が何が好きか」「自分が何を美しいと思うか」に答えられなくなっていく。
この「虚無」に抗うのは極めて難しい。
なぜならその戦う相手の正体がはっきりしないからだ。
この辺りも、確かにそのとおりだと思う。
床(敷地)を使って「収益を最大化」させようと思えば、
当然最も高い家賃を払ってくれるテナントを入れることになる。
そうした市場原理の下で、個店がチェーン店に比べて
より高い家賃を提示できることはまずない(それが立地条件のいい床であればあるほど)。
もしくはそれをできたとしても、「その家賃を払い続けられるのか」とリスクの話になると、「やはり資本力のある大手の方が安心」ということになる。すると、どこの駅前も同じ店、同じテナント、同じ景観になっていく。
例えば再開発などで出店可能な床(敷地)ができたとする。この物件の貸主が個人だとしたら、その個人の意思やこだわりで「こんなお店を」「こんな使い方を」と貫き通すこともできるかもしれない。
場合によっては採算度外視なんてことさえあるかもしれない。ただ多くの場合(再開発の場合などは特に)、貸主は組織化され、複数の人が関わる状況となっている。すると途端に話は難しくなる。「こんな開発をしよう」というゴールイメージの合意形成が難しいのだ。みなが納得する選択肢として「収益の最大化」がプロジェクトの落としどころとなる。
これも、実際問題としてそうならざるを得ず
ショッピングモールは同じようなチェーン店が入っているばかりになりがちだ。
最近では地元のお店を入れるようにしている傾向がありますが
入ったからといってそのお店がやっていけるかはまた別問題である。
出資をきっかけにギブの気持ちにスイッチの入った投資家は、
その後もお金にとどまらないその事業者の応援団になる。
ギブを受け取った事業者も、単なるお金以上のものを受け取っていることを実感し、事業に取り組む上での大きなエネルギー源となる。
また、そのようなお金だからこそ「きっと受け取った以上の額にして返す」という、いい意味での緊張感や使命感に
双方向の関係が一時で終わらず、五~一〇年にわたっての継続的なものとなる。
大変理想的な関係。
「お金を増やしたい」「資金運用」という「テイクの動機からでは決して選ばれることのない金融商品が
互いが顔の見える関係となることで、事業者の再建が投資家にとっても他人事でなくなり、その実現は金銭的価値を補完するような、一つの価値(うれしいこと)になっていく。
特定多数だからこそできる「顔の見える関係」でのやり取りは
もう少し複雑な価値のキャッチボールが可能になる。
日本にチップが普及しない理由として、
交換を不等価にすることで次なる交換を呼び込み、交換を継続させることで
関係を継続させるという隠れた知恵というのも面白い。
アメリカやヨーロッパなど、広大な国で
「次、いつ会えるか分からない」状況があるからこそ、一回一回の交換でどちらかが負債を負うことなくきちんと精算していく。
対して日本の場合、限られた国土の中、
同じ顔ぶれの中で長期間にわたって関係を構築していく前提で
むしろ交換をいかに途絶えさせないかという方向での知恵が求められた結果というのは納得だった。
クーポンやメンバーカードは作って「消費者的な人格」を刺激しないこと、
カフェでコンサートを開くことや
本を発行することなど
色々と興味深かった。
この本を読んだ後、クルミドコーヒーにも行ってみた。
近くなら通いたい、こじんまりとしたのんびりできるカフェだった。
お店にもまた機会を見つけて伺いたい。