すごくわかりやすくて、さらっと心に入ってくる
とても素敵な本。
講演会にあたり、自分は物書きなので、講演ではなく
書いた原稿を読む、という姿勢もばななさんらしいなと思った。
タイトルを読んで、小さないじわるとはなんだろうと思っていたら
新幹線で出会ったエピソードが語られていて、なるほどそういうことか、
と納得。
ネットでレビューを見ていたら、このたとえ話がわからないという意見があり
ちょっと驚いてしまった。
ばななさんが誤解のないよう、「こういう意味ではない」「こういうことではない」とともすれば回りくどいほど丁寧に
自分の主旨とは違うものが伝わらないように書かれているのに
”こういう意味ではないですよ”と言っている方の意味に悪くとっている人が多くて
ここまで書いても駄目か、伝わらないのかー、じゃあしょうがないのだろうな
と思ってしまった。
多分このエピソードを読んで頷けるか頷けないかで、
この本全体がすっと入ってくるか入ってこないかが別れてしまうのだと思う。
念の為書き添えるが、自分がこのエピソードから受け取ったのは
車掌さんがどうせ起こすなら隣のお客さんが来たときに起こしてくれれば
元々の席にお客さんが座れるという結果が選びとれたのに
全てが終わってしまった後でわざわざ伝えて、
それを聞いたところでもう贖罪の手段も全て断たれているのに
起こしてきたことの裏には、車掌さんの正義感、それを相手にぶつけて
解決ではなくただの罪悪感を引き起こすだけで満足したいというエゴ
それが小さないじわる、ということ。
疲れていたのに起こすな、とか、旦那に言えば良いとか
寝てたのだから仕方ないじゃないか、ということは一切ばななさんは仰っていない。
もっと言えば、車掌のことをいじわるだとも仰っていないと自分は思った。
amazonのレビューでも良い評価と悪い評価が真っ二つで
うーんと思ってしまった。
個人批判ではなくだからこうしたいというのでもなく
飽く迄ひとつの喩え話として語られているのに
受け入れられない人がいるのはわかるし
もしこの車掌の話自体を本気で取り立てるなら
車掌サイドの言い分も聞かなければフェアじゃないけれど、
ひとつのエピソード、たとえとして披露しているのに
作家の権力を振り回しているというように言われてしまうのは
随分と気の毒だと思った。
だとすれば、飽くまでも作り話である、と嘘をついて
このエピソードを始めればよかったのだろうか…?
自分はなるほど、そういうことを小さないじわると呼ぶのか
とすっと入ってきたので、
『こっちの望みを聞かず勝手に判断して腹を立ててぶつけてしまう』
ということもよくわかったし、
『よくない雰囲気の波紋』が広がっていく、というニュアンスも
非常に共感できた。
こいつは勝手に寝ていて、どきもしない悪びれもしない
常識のないやつだ!と思い込んで自分の正義感をぶつけて
自分が正しいと思ったり、
ぶつけてみたら相手が自分が思ったような非常識な人ではなかったけど
引込みがつかなくなったり
そうして言い合いをしている人が同じ車両にいるだけで
なんとなく嫌な気分になるレベルでも負の連鎖が広がっていく。
自分は歴史を勉強するにつけ、『昔』の日本と今の日本は違うと思っているので、
“お金が中心のマニュアル社会と、合理化と、閉塞感から来るストレスがみんな合わさって、日本人は昔持っていた絶妙のさじ加減というものを失いつつあると思います。”
という言葉にとても納得した。
この失った資源を取り戻すのは途方も無いことだけれど、小さいことだが
ひとりの人間が変わることからしか何も始まらないと自分も思うし、
少しでも取り戻していけたら良いなと思っている。
中国の僧侶に対し、辛いことや、危機を感じたことはと質問したら、
中国の役人達に対して慈悲の心を失う危険を感じた
という回答があったというエピソードには圧倒された。
“正す手段が存在しているならば、何も心配することなく、正す努力をすればいい。しかしその問題に対して、何も手段がなければ、やはりそれ以上心配しても全く無意味である”
この言葉も印象的だった。
普段、やるしかないのに真っ直ぐその努力に向かえずぐだぐだ考えてしまったり、
手段がないのにいつまでもうじうじ考えたりということが自分には本当に多く
少しでも切り替えていけたら良いなと思った。
2015.5.19