【読了】SOSの猿(中公文庫)

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解説によると、古参ファンには評判が芳しくなかった作品なのだという。
自分はオーデュボンからはまったクチだが、本作も非常に面白かった。

思うに、はっきり答えを出されないと嫌だという人が増えているのではなかろうか。
自分は十分これはこれで答えだと思ったし、読み手に委ねずなにもかも答えを出されると逆に信用されていない気もしてしまう。

こんな作品を新聞で連載されたら続きが気になってたまらないなと思う。
漫画と対になっている企画物だと聞いて、また面白いことを考えるものだと思った。

漫画は読んでいないので、是非読んでみたいと思う。

以降ネタバレ。

主人公の二郎にはかなり共感する。
自分も、誰かが困っていると大して自分に力があるわけでもないのに
「どうにかしてあげたい」と思ってしまう。
してあげられない無力感で落ち込む。
だから、できれば端から悩みから遠ざかっていたいと思ってしまう自分もいる。

尼僧ヨアンナの件で、彼女に悪魔がついていなかったらと
そのことを考えると1番恐ろしいと神父が独白する箇所は
思わず神父の気持ちになって恐怖を覚えた。

悪魔がついていない方が良いはずなのに、
ついていないのにこんなに悪魔のような所業をする人を前に
理由が見つけられなくなる恐ろしさ。
生きている人間が一番恐ろしいと日本ではよく言うが
同じようなことだと思う。

日本では、と言えば、
“悪魔とはおそらく、西欧の文化ならではの存在に違いない。
つまり、完璧な存在、善なる存在としての神がいることが前提で、
その敵として悪魔がいる。”
という考察は確かにそうかもしれないと感じた。

悪い部分と良い部分が混ざり合って1人の人間になるという感覚は
日本人には割と理解できるものなのではないだろうか。

だからこそ、バロンとランダという概念も共感できるのでは
ないかと思う。

“物事を簡単に断定する人間は、ちょっとしたきっかけで、
全く逆の立場にもひっくり返る。”
これも、「生きている人間が恐ろしい」の1つだろう。

良い人であろう辺見のお姉さんが、息子のことを
「私はわかってる」と言い切ってしまうことが仄かな恐ろしさを感じた。

「わかる、と無条件に言い切ってしまうことは、分からないと開き直ることの裏返しでもあるんだ。そこには自分に対する疑いの目がない」

あの子はあんなこと言うことをするような子じゃない私はわかっている
と言ったその口で、数日後にはあの子のことがわからないと言い出す。
確かによくある悲劇だと思う。

二郎君がイタリア留学までしたのに今は絵を描いていないことを
逃げではなく自分で本当にそう思って描かないでいるのだけれど、
親に対しては申し訳ないという気持ちもどこかにどうしても抱えていて
イタリアまで行かせた息子がこんな感じで、という言葉が出てくるのが
リアリティがあるなと思った。
それに対して内面は変わっていないが外面は楽天的に変わったお母さんが
誰かのせいにしたことがないから問題がないと答えるのも、
かと言って絵を描けとか描くなとかではなく
「もし描いたら見せて。私あなたの絵が好きだから」
と言ってくれるのが、調度良い距離感の柔らかい答え方だと思った。

ところで自分はエクソシストは見たことがないが
西遊記は読んだことがあるし、三蔵法師のために働く悟空が
割と玄奘三蔵に信じてもらえないし不条理に怒られるし

猪悟能がずるくてさぼったり人のせいにしたりするのは咎めないのに
結局悟空だけが怒られるしで、もやもやした。
だからなのか、ちょくちょく物語の中に書かれている不条理さや
登場人物たちの西遊記に対する見解は同意できるものばかりだった。

孫悟空が「暴力も必要な時はある」というシーンは
色々と思うところがあった。

突然孫悟空が出てきたときには驚いたが
あぁ、そういうものなのだ、と自分は結構するに順応できた。
解説によるとこの唐突さが苦手な人もいるということだったが、

物語は、語り手がしゃべればそれが真実となる”。
それが小説の面白さでもあるのだ。

相手の心の風景が見える、というのは
活かして欲しい能力だと思っていたが、
最後に二郎君がさらりと
「絵、描きたいですね」と口に出し、
それで自分でそうか描きたいのか、と気づいたのは
なんだか温かい気持ちになった。

ようやく描けるのかもしれない、と、良いタイミングで
本当にそう思えたというのは素晴らしいことだし、
その絵を見たお母さんは喜ぶと思う。
自分の心の絵を見て救われる人もいるのではないかと思うのだ。

2016.7.1