一汁一菜でよいという提案 (日本語) 単行本(ソフトカバー) – 2016/10/7
土井 善晴 (著)

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食事はすべてのはじまり。大切なことは、一日一日、自分自身の心の置き場、心地よい場所に帰ってくる暮らしのリズムをつくること。その柱となるのが、一汁一菜という食事のスタイル。合理的な米の扱いと炊き方、具だくさんの味噌汁。

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日本人は魏志倭人伝の頃から「礼儀正しく清潔な人々」であり
箸は自然、恵と人との境。いただきますで結界をとく。
飛鳥時代に箸とさじはセットでもたらされたが箸だけ取り入れた
というのも興味深いところ。
茶碗を手に持つのは日本だけというのもそうだ。
生活と暮らしというのは、似て非なるものなのだなということを
最近よく感じる。
昔は暮らしがあったが、現代日本は生活はしやすいが
暮らしにくい環境にあると思っている。
幸せは”暮らし”の中にあるのだと思う。
食べることは、生きることだ。
健康であるために良いものを食べる。
正しく和食調理したものは雑菌が少ないというのに
納得するものがあった。
和食の背景には「自然」があり、西洋の食の背景には「人間の哲学」がある
というのも面白い。
確かに、食も文化である以上気候風土に関係するし、
日本は自然を畏怖し、神様が身近にある文化だったことを考えると
確かに和食とはそういうものだと思うのだ。
日本人にとって米は他の食材とは別格だ。
神が宿っていると考えられているし
米だけ食べていれば大丈夫だという信奉もあった。
実際、江戸時代も栄養事情は悪く脚気や眼病も蔓延った反面
この栄養だけでここまで健康でいられた医学的根拠もないという話も聞く。
米だけで何キロも歩き通せるような逞しさは、精神的なものもあったかもしれない。
戦後、「お米を食べれば馬鹿になる」として
余った脱脂粉乳を押し付けられ、パンとミルクとおかずの給食になり
油を使う調理法が始まった。
昔は焼く、煮る、蒸すで、炒める調理法は日本にはなかった。
加工食品を使って別の食材と混ぜ合わせて複雑にする。
手をかける=料理をすることという誤解を助長している。
食材同士を組み合わせて別の味を作ることや香辛料や調味料で味を重ねて作るのは日本的な考え方ではない。西洋の考え方。
脳と身体が喜ぶおいしさは別。
手間をかけたから必ずしもおいしくなるわけではない。
手を掛けるのが愛情ではない。
これもなるほどと思った。

和食が手間暇をかけるのは、場を浄め魚の鱗や骨を取り除くような
丁寧で清潔な作業の部分だ。
真実、善良、美しさ 真善美をきれいと表すのが日本である。

現代は、霽れと褻の概念が薄まっていると感じる。
普段は食べないからご馳走が嬉しいはずなのに、境目がなく
確かにアンバランスになっている。

大阪人はケチだという話も、霽れには贅沢をするからこそ
日常的には贅沢はしないから。それは格好悪いことだから『ケチ』にする。
それはなるほど、バランスが取れているといえるだろう。
暮らしとは、毎日同じことの繰り返し。
同じことの繰り返しを無意味なこととして表現されることも多いが
毎日同じだからこそ気づくことがあり、それが喜びにもなるというのが
目からうろこだった。
そうした些細で丁寧な日々を送ることの大切さを
忘れがちになっている気がする。
庭の掃除を終えて、またすぐに木の葉が落ちたら台無しになったように感じることの方が多いのではなかろうか。
掃除する前の庭に戻ってしまったのではなく、
掃き清めた新しい庭に、新しい木の葉が落ちた。
そこにまた、新しい庭が現れている。
この考え方はとても素敵だと思う。
初めて見る庭は美しいし、いつも動いていることが美しい。
滞らない時間という自然の姿。
侘び寂びにも繋がってくる気がする。
食べる為に必要な行為全てをひっくるめて「食事」。
人生とは、食べるために行動し命をつなぐこと。
しかし現代の日本では、自分っで料理をしなくてもお金さえあれば
ご飯は手に入る。
ただ食べるだけのご飯が、ご飯というより餌という感じで
味気なく感じるのは、『食べるために必然であった行動(働き)』が
伴わないからなのかもしれない。
忙しくて時間が無い、かと言って栄養の有るものを食べるお金もない。
「資本主義の競争の原理による必然」というより
「生存競争」である。
このような状況で「きちんと自炊しろ」と言われたら
素直に聞けないところだが、本書では
必ずどんなときでも料理しろと言うのではない、としている。
一汁一菜とは、ストイックな健康法ではなく
スタイルである、というのが印象的。
個人的にはご飯の代わりにパンの日なら無理に味噌汁にしなくても
良いとは思うが。
実際味噌は洋食にもとてもよく合う調味料ですし、
パスタソースに味噌を入れるのでも良いと思う。

人が健康でいられるために重要な「環境」の中で、
食事は自分で選んでコントロールできる唯一と言って良いものだ。
科学的に完全に安全で安心だと言える食品はないが
自分で料理することである程度は選んで家族の身を守ることができる。
実際問題、自分が遅くなる、不在というとき
パートナーに「適当に食べといてね」と言えばよいとは言い切れない。
先生のように一人でも適当でも作ろうと思う人もいれば
面倒だから食べないという人もいるわけで。
まぁだからといって大人なのだし、放っておけばいいというのなら
それはそのとおりでもあるが。
ねこまんまのような適当なご飯を食べる日もあって良い。
作る余裕も時間もないのに、無理におかずまで作る必要はない。
これは生きる力が働いているのであって、
食の乱れでも何でもなく当たり前、という断言は心強い。
デザートや珍味を『菜』にカウントする発想はなかったが
確かに一汁一菜にとどめようと思っても、
すぐに結果として一汁二菜にも三菜にもなるというのは確かにそうだ。
一汁一菜というスタイルを基本にして、暮らしの秩序ができてくれば
肉料理を食べる日もあれば寝坊する日もある。
一緒に食卓を囲めなくてもいい。それで良い。
家庭料理が、いつもいつもごちそうである必要も、
いつもいつもおいしい必要もない。
とにかくできることを一生懸命する。

言われてみれば、オーナーシェフのいる店、チェーンレストラン
コンビニ、家庭で食事の仕方は異なる。
満足感が大きい場合、
作り手と客は顔を合わさず、店は売り上げのみを受け取る場合。
コンビニご飯が駄目という話ではなく、食事の種類が変わってくる。
同じものを食べているつもりでも、食事は栄養だけを摂るものではないと思う。
買ってきたオムライスと、今目の前で家族が作ってもらったオムライスは同じものでは無い。
家庭でたとえば母が作るとき、その日の母の状況・条件、つまり
機嫌や時間・予算の余裕や
それまでの食材の知識、調理経験等々が関係し、
かつ食べる人こともインプットされた状態で科理を作る。
オーナーシェフならありえるが、チェーン店やコンビニで
『この人のために作る』料理というのは難しい。
注文通りに作るだけだ。
子供が食べるとき、これらの母の状況・条件、経験を丸ごと食べると言われると
なるほど食育の大切さというのもよくわかる。
食事をとったことで子供の健康状態や成長のバロメーターに変化が起き
それが親に返ってくる。
「もの喜びできる人」。
喜んでくれる人は、わかってくれる人。
人の愛情や親切に気づくことができるのも能力であり、
それは食育によっても育つというのも頷ける。
既に食品についての知識があれば、食べるときに得る情報も異なるし
五感と経験を照らし合わせて食事をとることになる。
日本人は旬を大切にする民族でもある。
旬のものだから、初物だからといってありがたいと感じるのも
日本人らしい『食事』なのだと思う。

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