燃えよ剣(下)読書レビュー

燃えよ剣(下) (新潮文庫) (日本語) 文庫 – 1972/6/19
司馬 遼太郎 (著)

男なら、情熱のすべてを注げ! 「武士道」を貫いた土方歳三の美学。幕末小説の頂点。
元治元年六月の池田屋事件以来、京都に血の雨が降るところ、必ず土方歳三の振るう大業物和泉守兼定があった。新選組のもっとも得意な日々であった。やがて鳥羽伏見の戦いが始まり、薩長の大砲に白刃でいどんだ新選組は無残に破れ、朝敵となって江戸へ逃げのびる。しかし、剣に憑かれた歳三は、剣に導かれるように会津若松へ、函館五稜郭へと戊辰の戦場を血で染めてゆく。

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局中法度と俗に言われるものが新選組に
本当にあったのかは謎であるが、
そもそも本当に局中法度が存在したなら、
土方の七里との戦いは私闘であり立派な隊規違反ではないのだろうか。
その辺りには特に触れられていない。

七里が土方を切ろうとしたのは伊東甲子太郎の差し金
という設定は少々面白いと感じる。

山南さんと藤堂平助が同門の北辰一刀流となっているが、違う。
一刀流(小野派一刀流)を北辰一刀流と
勘違いしたものではないかという説が有力だと思う。

伊東が近藤土方を佐幕と言っているが、
やはり佐幕と攘夷の意味を履き違えているように思う。
『近藤と歳三の本質を衝き』
『伊東が論才を縦横に駆使して二人を追い詰め』
という地の文がもう司馬さんが3人に対して
どういう印象を持ったままこの小説を書いているかが
わかってしまう。

かなり伊東さんに好き放題してやられて、
切ればいいと思っているから、とする割には
武田観柳斎しか切らないのも違和感がある。

土方さんが『最後まで徳川幕府を守る』と考えていたとは思えない。
将軍は恭順し江戸城も明け渡しているのに
箱館まで戦ったことを考えれば自ずと知れると思うのだ。

土方さんより近藤さんの方が道場主であり
”上”であったのに、百姓上がりなのに贅沢な屋敷に住んでいる
というのも可笑しな話。

おつねさんが腹をかきながら「ああ」と返事をしてくる、
大旗本の奥様とは到底言えない女、というのも
とても失礼である。
実際のつねさんは士族の家の人で、一橋家の祐筆もつとめていたほどの方だ。

土方さんのことを江戸行きを堺に「人間ができてきた」と隊士の評判がよくなるという描写も酷い。
飽く迄も司馬さんは、歳三は恋のできない男で、それなのに
女ができて生命のあわれさがわかってきたから人間らしくなった、と思っているから
こういう描写になるのだ。

『自分の薬は効くと信じていた。そんな性分。』というが
売っている本人が効かないと思っている薬など誰が買うだろう。

近藤さんが政治の面白さを京都で知って浮かれているというのも腹立たしい。
京でお歴々に呼び出されて、それできちんと物申せるほど
日々勉強していた近藤さんの格好良さはこの本の中にはどこにも無い。
また、『はじめに京にきたときは幕府天朝は頭になく攘夷の魁になるというだけだった』というのも可笑しい。
浪士隊は将軍の護衛が目的だった。

御陵衛士の方が近藤さんを狙っていたという話はなく
突然新選組サイドが伊東さんを暗殺してしまうし、
その後近藤さんがおかしくなるとされるのも酷い。

和泉守兼定が既に何人切ったか数も覚えてないとされているが
まさか一振の兼定を何年もずっと使っている設定なのだろうか。

沖田も俺も肉は食わないのに近藤は豚を食った
とするが、新選組の屯所では松本良順のアドバイスで
鳥や豚を飼いそれを食って力をつけていた。
合理主義で洋装も厭わなかった土方さんが
肉を食べなかったとは思えないし、食べた近藤さんをバカにするとも思えない。
慶喜公だって豚肉を食べていたわけで、
一般庶民は馬鹿にしていたとしても
隊としては肉を食うことを推奨していた。

慶喜の不在を良順から聞くのも疑問だし
大阪城に確認に行って理不尽に武士を殴り倒す。
近藤の政治感覚は現代の田舎の市会議員程度という言葉も
各方面に失礼だ。

山崎烝さんの水葬を史実と信じている人は未だに多かろう。

資料的に信頼度が高いとは思えない上
明治政府に肩入れしていた勝海舟の話を引用されてもと思うが
相変わらずの引用ぶり。

慶喜公のことも逃避専一の生活で悲劇としているが
褒美がもらいたくて政権返上したわけではないし
幕末の諸々のことについて彼が考えていたことはこのようなことではないはず。

新宿で遊女屋に泊まったという記述も語弊がある。

旧幕府にとって新選組の名前が重荷というのもおかしい。
勝海舟など薩長に歩み寄っていた者たちにとってはそうだったかもしれないが。

仙台で永倉と行動を共にしている描写も誤解されそうだ。

また、斎藤一諾斎についても気になる。
斎藤一の変名では無く、全くの別人である。
一諾斎さんは甲陽鎮撫隊に誘われて、56歳にして
入隊したというこれまた恰好良い人なのだが
一さんの変名にされてしまい残念な限り。
フィクションとしてそうした設定にした割には
斎藤さんの活躍がある訳でもない。
斎藤さんはべらべらと往時のことを語ることはなかった。
晩年まで土方のことを妙な人だったと語った、ということはなかったと思う。

フィクションなのだから事実と同じでなくても良い。
が、司馬さんの書き方は地の文に私見を入れたり
「当時◯◯だった」とさも本当のように現代からの視点を入れたりしてしまい
事実だと誤認されやすい書き方である。
当時◯◯、というのが事実が調べてみると、長州サイドの一部が言っているだけの資料であったりして
新選組の物語を描いているはずなのに
どれだけ薩長サイドの資料を用いて偏った書き方をしているかがよくわかる。

土方さんが単騎で切り込みに行って一斉射撃されるという最期もありえない。
因みに史実では弁天台場に孤立した仲間を助けに行っている。

それから税のことについて、
『この男に相応しくない人情的な始末』 
という書き草も可笑しいのだが、
結局司馬さんは土方さんは『いい人ではなかった』と思っているから
史実を追うと当たり前にしか思えない土方さんの言動が
『気まぐれ』と書いてしまうのだ。

司馬さんは本作と『竜馬がゆく』を並行して書いており
坂本龍馬愛には溢れているが
新選組に抵抗感があるままこの小説を書いている。
書き終えたあとは、「土方も近藤も、自分の浮世の知人のたれよりも親しいような感情をもっています」としてはいるものの
書き始めも書いているときも、新選組に対して共感はしていなかったと思われる。
執筆の動機として「漢(おとこ)の典型を描きたい」というが
漢としての泥臭い表現が、まともな恋愛もせず
やっとできたら突然いい人になり、仲間と言えば
近藤さんすら心底惚れているわけもなくて
沖田さんが多少懐いてくれているくらい、というのは
読んでいて非常に哀しく
新選組の魅力が全く伝わってこないと思う。

自分の周囲の一定の年齢以上の人は
新選組と言えば『燃えよ剣』が良いと言ってくるのだが
多分史実を全く勉強しておらず、賊軍のイメージを変えてくれた一点において
恰好良い新選組という認識なのではないか。

この本を読んで、新選組のどこが恰好良いと思えるのか
自分には疑問でならないし、
本当に『新選組が好き』であるなら
史実も勉強して欲しい。
フィクションと史実は違うとは言え、この書き方で
『新選組が本当に好き』な人が納得できるとは思えない。
史実も知っていて新選組が大好きで、燃えよ剣が面白いと思う方に、是非お会いして
理由を聞いてみたいと思うほど、ずっと疑問である。